zombot222 wrote:
不要懷疑,.倭寇本來就是大部分是中國人--
這句話,要看是說什麼時代
不然有誤導之嫌....
倭寇最早就是打日本來的沒錯
節自田中健夫著『倭寇――海の歴史』
1. 14~15世紀の倭寇
『高麗史(こうらいし)』に倭人が朝鮮半島に寇した記事が初めてみえるのは1223年(貞応2)で、日本側の記録でも1232年(貞永1)に鏡社(かがみしゃ)(佐賀県唐津市)の住人が高麗から珍宝を奪って帰ったと記している。しかし、大規模な倭寇集団の行動が起こるのは1350年(正平5・観応1)以後で、この年以後毎年のように倭寇は朝鮮半島の沿岸を荒らしている。倭寇が略奪の対象としたものの第一は米穀である。租粟(そぞく)を収める漕倉(そうそう)とそれを運搬する漕船(そうせん)がまず攻撃の目標になった。ついで沿岸の住民が第二の略奪対象になった。捕虜にされた高麗人は日本に連れてこられただけでなく、遠く琉球(りゅうきゅう)にまで転売されることもあった。高麗では高官を日本に派遣し、倭寇を禁止するように求めるとともに、日本在住の高麗人捕虜を買って帰国させた。日本から捕虜を高麗に送還すれば相当の対価が支払われた。倭寇の構成員は、日本の名主(みょうしゅ)・荘官(しょうかん)・地頭(じとう)などを中心とする海賊衆、海上の浮浪者群、武装した商人などのほかに、高麗で禾尺(かしゃく)・才人(さいじん)といわれた賤民(せんみん)群が合流することがあった。禾尺は牛馬のと畜や皮革の加工、柳器の製作などに従った集団、才人は仮面芝居や軽業を職とした集団で、伝統的に蔑視(べっし)されていた。
1392年、王氏の高麗王朝にかわって李(り)氏の朝鮮王朝が成立すると、高麗時代からの外交折衝による倭寇鎮圧策を継承するとともに国防の体制を整備し、新たに倭寇を懐柔する政策を採用した。この政策により、倭寇は朝鮮に投降して官職や衣料、住居などを受けるもの、使人(しじん)や商人として貿易に従うもの、従来どおり海賊行為を続けるものなどに分解変質し、やがて消滅していった。朝鮮側では1419年(応永26)、倭寇の巣窟(そうくつ)ないし通過地とみなした対馬(つしま)の掃討を目的として大軍を対馬に送り込んだ。これが応永(おうえい)の外寇(がいこう)で、朝鮮では己亥東征(きがいとうせい)とよんだ。こののち朝鮮では対馬の宗(そう)氏を優遇して、日本からの渡航者を管理する役目を与え、倭寇再発の防止に備えた。
朝鮮半島を襲った倭寇は転進して中国大陸に向かい、元(げん)や明(みん)を攻撃した。明の太祖(たいそ)(洪武帝)は海岸の警備を厳重にするとともに、日本の征西将軍懐良親王と折衝して倭寇を防止しようとしたが、成果はあがらなかった。明の成祖(せいそ)(永楽帝)のときになって足利義満(あしかがよしみつ)との間に通交の体制ができ、以後中国大陸の倭寇も鎮静した。
2. 16世紀の倭寇
16世紀になり、中国大陸の南岸から南洋方面にかけて、また倭寇とよばれる集団の活動が始まった。もっとも勢力が盛んだったのは1522年(明の嘉靖1年)以後約40年間にわたって行動したもので嘉靖(かせい)大倭寇といわれる。この時期の倭寇の特色は、構成員中に占める日本人の率がきわめて少なく、大部分が中国人であったこと、東アジアの海域に初めて姿を現したポルトガル人も倭寇の同類として扱われたことである。倭寇に捕らえられた中国人が、髪を剃(そ)られてにせの倭寇に仕立てられ、一群に加えられることも珍しくなかった。明では太祖のとき以来、海禁(かいきん)という一種の鎖国政策をとって中国人の海上活動を禁じていたが、経済活動が発達した16世紀ではこの政策の維持が困難となり、海上で密貿易を行うものが激増した。郷紳(きょうしん)、官豪(かんごう)などとよばれた地方の富豪層も密貿易者群と結んでその活動を助長した。ポルトガル人も明から正式の貿易許可が得られなかったので密貿易者となった。そこに日本商船が、当時国内で生産量を急増させていた銀を所持して南下し、合流した。これらの人々は中国の官憲から一括して倭寇とみられたのである。彼らは浙江(せっこう)省の隻嶼(そうしょ)、ついで瀝港(れきこう)を根拠地として盛んな密貿易を行った。この地が中国官憲の攻撃により壊滅すると、彼らは根拠地を日本に移し、中国大陸沿岸に出動して寇掠(こうりゃく)活動を行った。倭寇の集団は分裂・合体を繰り返し、その行動は複雑な様相をみせたが、もっとも有名だったのは王直(おうちょく)である。王直は日本の平戸(ひらど)や五島(ごとう)地方を根拠とし、大船団を組織してしばしば中国の沿岸を侵した。彼は、1543年(天文12)に種子島(たねがしま)に漂着して日本に初めて鉄砲を伝えたという外国船のなかの乗員の1人であり、五峰(ごほう)先生とよばれて尊敬を受けていた。彼は密貿易の調停者としての資格を備えた人物で、密貿易者の交易を保護代行したり、倉庫、売買の斡旋(あっせん)をしたりしたらしい。明では王直一派の掃討に手をやき、帰国すれば罪を許して貿易を許可するとして誘引し、彼が帰国すると投獄、斬首(ざんしゅ)した。
倭寇に参加した日本人は、鄭若曽(ていじゃくそう)の『籌海図編(ちゅうかいずへん)』によると、薩摩(さつま)、肥後、長門(ながと)の人がもっとも多く、大隅(おおすみ)、筑前(ちくぜん)、日向(ひゅうが)、摂津、播磨(はりま)、紀伊、種子島、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、和泉(いずみ)の人々であったという。船は3~5月ころ五島または薩摩を発し、大小琉球(沖縄、台湾)を経て、江南、広東(カントン)、福建に至ったという。倭寇の残虐行為として類型化して伝えられているのは「縛嬰沃湯(ばくえいようとう)」と「孕婦刳腹(ようふこふく)」である。前者は幼児を柱にくくりつけて熱湯をかけ、その泣き声を聞いて喜ぶというもの。後者は妊婦の腹を裂いて、男女のどちらをはらんでいたかを当てる賭博(とばく)であるという。一方、倭寇が善良な住民に温情を示したという話もなくはなかった。明では胡宗憲(こそうけん)、戚継光(せきけいこう)、兪大猷(ゆだいゆう)らが海防にあたって成果をあげ、1567年には200年にわたった海禁令が緩められ、南海地方との貿易が許されて、倭寇活動は鎮静に向かった。この時代、明では数多くの日本研究書が発表され、中国におけるこれまでの日本認識は一変した。